太宰治が残した「勉強の素晴らしさについての教え」が共感できると話題に!

dazaiosamu ネットの話題
スポンサーリンク

太宰治が残した「勉強の素晴らしさについての教え」が共感できると話題になってる模様です。

ネットでは「つまりどういう事?」「なるほど興味深い」「ほお~」といった声が寄せられています。

スポンサーリンク

太宰治が考える「勉強の素晴らしさ」

Twitterユーザーの「うまいごす@本と音楽の怪(@umaigos)」さんがツイートした、太宰治が考える「勉強の素晴らしさ」が話題になっている模様です。

勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも科学でも、時間の許す限り勉強して置かなければならん。 日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされているということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからの、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!

ちなみに「カルチベート」とは英語の“cultivate”で「耕す」という意味です。 つまり「耕された人間になれ」ということのようです。

ネットでは「つまりどういう事?」「なるほど興味深い」「ほお~」といった声が寄せられています。

ネットの反応

太宰治が考える「勉強の素晴らしさ」に関するネットの反応を見てみましょう。

「まず『カルチベート』の意味が分からん」という人の為に補足すると、ようするには『つちかわれる、洗練される、磨かれる』という意味。

つまり、どういう事なのでしょうか?勉強する事は愛することを知ることなのでしょうか?(理解力なくてすみません)

人は「知らない」と「嫌い」を同じにしてしまうことが多々あります。 なんか怪しいから嫌だ…。 よくわからないけど胡散臭そう。 これはただ知らないだけ。 ちゃんと知ったうえで嫌いになるならわかりますが、わからないのに嫌うのは機会損失でしかありません。 そこの区別をしっかりと付けましょう。

学生時代に不勉強だったものはかならずむごいエゴイスト の一文で物凄くあぁ……となってしまった

なるほど、興味深い話だな。 暗記ではなく心を広く持つ部分が物凄く共感出来る。 まあ、何の役にも立たないや直接役に立たないではなく、それらを日常で使いこなせたらもっと素晴らしいだろう。

学生時代にこの文章に出会い、ずっと心の底に残っています。生き方としては、こんな繊細さんの轍は踏みたくないとは思いながらも、未だに学びたいという意欲の一部にはこの言葉も残っているのかもしれません。

確かに、外国語の勉強というと「別に海外旅行や海外の人と仕事しないから」と避ける人は多いが、サピアウォーフ仮説といって、主言語以外で物事を考えたり捉えることで異なる視点による思考ができ、問題解決能力も高まるという効用もあるので、他言語学習には副次的なメリットがある。

よーわからん?

太宰治「パンドラの匣」

太宰治が書き残した「勉強の素晴らしさ」の一節は、長編小説「パンドラの匣(はこ)」の中にある「正義と微笑」という一節で書き記されています。

「パンドラの箱」とは古代ギリシャ神話のひとつで、 ゼウスがパンドラに持たせたあらゆる災いの詰まった箱を、 好奇心から開けてしまい、全ての災いが地上に飛び出したが、箱の底に「希望」 とかかれた小さな光る石が残っていたという話。

勉強したことを全て忘れてしまっても、ひとつかみの砂金が残ってい良いとする太宰治の考は「パンドラの箱」に通じるものがあるのでしょう。

太宰治の「パンドラの匣」は2009年に映画化もされているので、興味のある人はチェックしてみてください。

「パンドラの匣」はHuluで見放題です!


めちゃくちゃ”カルチベート”という言葉を使いたい衝動に駆られています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました